ひつじのTime killing notebook

昔々ばかりってつまらなくなったので、最近の海外ニュースも雑記に...むっふ(=^m^=)♪

英語も出来ないのにリラックス。

 

海外で暮らすと言うのは、思っているよりも大変な事のようなのだけれど、そう知ったのはもう住んでしまって暫く経ってからの事だった。
私の場合は案外気候が嫌なだけで、精神的には暮らしやすかったかも?

ろくに英語など話せなかったのですが・・・結構平気だったのです。
この平気と言う自信が何処から来ているのかよく解らないんだけれど、私の中では「まぁ何とかなるでしょう」と思っていたことだ。

でも何時もコンパクトな辞書と、小さなスケッチブックは持ち歩いていたんだけれど、
暮らし始めてから1年以上経ってから、私の暮らしているフラット(集合住宅)の家賃が下がって日本人が移り住んできた。
皆大手商社だったり銀行関係の家庭で、我が家の様に、何のサポートもない小さな規模の事務所とは違うからか、聞いたら転勤1年前にはお達しがあり、家族は1年間無料英会話レッスンの猛特訓があるらしい。

にもかかわらず、日本人はグループを作り、常に団体行動の様だった。
でも暫くすると、子供が遊ぶ相手が限られるので、私も話によっては仲間入りするようになったので、色々事情が分かって来た。
皆一大決心で出てきた人が多いし、英文科卒業の奥さんが圧倒的に多かったのは、会社も考えたのかもしれない。

キッチンドリンカーになったり、うつ病になって途中で何かトラブルになっても困るからなのでしょうね。
かえって私の様に何も情報が無く、夫の都合の良い情報だけしか知らないで、来てしまえば良いのだから・・・可哀想だったのは子供だけですね。

帰国子女は帰国してから苛めの対象にもなる例が多く、皆の苦労の種のようだった。
そんな事も知らない私はとりあえず、カラッとハワイの様に爽やかと思っていた気候が、1年中蒸し暑くてと言うのにバテ気味でした。

でも人の体は自然に慣れてくるようで、1年経ったら辛くは無くなりました。暑いのが嫌いなのは変わらずですが、嫌なところだからまずはストレス解消するには、楽しい事を見つけてなるべく楽しく暮らそうと考えたのだ。

悩んだって問題は解決しませんし、夫に言ったら10倍以上になって返ってくる人である。余計な事言うよりも、良い方法を考えた方が、楽なので子供をプールに連れて行きながら、私も西欧人と同じに、サンデッキにひっくり返って読書をしていた。

プールサイドで英会話の本や単語を勉強していた。一人で居ると、よく顔を合わせる人などが話しかけてくるようになり、それで私は英語を覚えた。

私はまずは先に「日本語が話せますか?」と聞いてしまう。大概話せないのが普通で、それから「私は英語が少しだけ話せます」と偉そうに言う。

するとほとんどが英語が話せるのが西欧人だから「大丈夫よ。教えてあげるわ」という事になるのが、普通の流れである。

それ以外にも、ちょくちょくお気に入りで出かけたローカルな街があり、そこにはアメリカ人がコットンショップを開いていて、パッチワーク教室も開いていた。
そこで私は、その教室に行くことにした。生徒の多くはアメリカ人だったけれど、良い意味でフレンドリー。

ヨーロッパの人の方が、雰囲気は違うし「あの米語がスライダーの様で嫌だ」と言われていた。でも、当時は私は気にしないで、時間はたっぷりあるので、毎週習いに行っていたので、帰ってきたら、習ったことを西欧人の友達に教えた。

まぁこれがちょっと、英語か米語かで混乱することがあったのだけれど・・・それもいい加減な性格と都合が悪くなると、英語が解らないという事で、必要な英語だけは覚えて、出かけて行った。メートル法だけは皆私に合わせて、センチで話してくれたけれました。ヤードやインチは本当にピンとこない。たまたま私は若い時の仕事は図学が必要な仕事だったので、パッチワークの図面を描くのは、まったく問題なく、どのように線や曲線の分割も出来たので、簡単な方法を先生に代わって、厚かましく教えてきた。
幾何に関しては、皆不得意なようだ。あまり主婦は必要ないからかもしれない。

運も良かったのか、調子が悪くなって病院へ通院も、一人で何とか出来たのですね。日本と違って、まず先生に予約を入れて、病院に行くと、スーツ姿ドクターが居てメディカルチェックされて、次の診察室へ回されるのだ。

外国人が多い国は、何処の国の人でも判るように合理的に出来ているので、あまり困らないで診察を受けて、前からちょくちょく繰り返す、椎間板ヘルニアと診断された。これは重い物持つとかそういう原因だけでなく、繰り返しなる人はストレスが原因の場合も多々あると言われた。何故か言われたことはおおよそ分かったのです。

それで、最近日本でもそのように言われるようになったけれど、イギリス領だった国は医学も発達していて、今から30年以上前?から、そのような診断がされていた。
そのほかにも感じたが、ヨーロッパの国などの植民地だった国の方が、日本より貧しかったかもしれないけれど、ずっと進んでいる面が多々ありました。

と英語が話せなくても、何とか伝えようと思うと、よほど込み入った話でない限りは、何とかなるんですね。その国の人達は、絶対に暮らしがかかっているから、英語が話せないと良い仕事にありつけないので、子供だって余程でなければ読み書きが出来なくても、バイリンガルなのでした。

今頃になって、やっと小学3年生くらいから英語教育が始まるらしいけれど、嘘みたいな話ですね。もう幼稚園くらいから始めても良いのではないかと思うんですけれどね!
ネイティブな先生が見つからないと言うが、フィリピンとかインドとか中国人の先生でも綺麗な英語話す人沢山いるんですけれどね。

もしかしたら、英語が平気だったのは、小さい時から外国人が近所で暮らしていたり、知り合いがいたのが、まずは何のプレッシャーも、感じなかった理由かもしれない。

今思い出したが、義叔父たちは英語が話せたのでした。

落ち着けば、相手の言って居る事は、そこそこ解るものである。わかない時は相手の言う事を復唱して、確認すると又違う。でも日本で普通暮らしていると、和製英語ばかりTVで連発も宜しくないのではないかしらね?と言う事で、バイリンガルである事は悪い事ではないので、何歳であっても勉強してみるのも良いと思う。

外国語を知るには文化も知る事だから、世界が広くなると思う。目から鱗なんて、日常的な事だと気が付くと思う。

そこで暮らさなかったら、インドも雪が降るくらい寒い所があるなんて、知らなかったものね。暑い中一緒にニットで編み物していたインド人が不思議だったけれど、聞いて吃驚したものだ。世界の事の教育、あまり学校ではされていないですね。

良い意味で日本も「チェンジ」して欲しいなぁ~と思う。

資源も少ないし、日本には保存すれば美しい景色などの遺産が沢山あるから、観光国日本で外貨を稼いだって良いんじゃぁないかしらね。

地震は心配ですけれどね。巻き込まれずに、無事に帰国していただきたい。
そんな時も、皆が少しでも英語で、ヘルプ出来れば良いのですけれどね。

海外の安全な国はかなずしも安全ではない

昔南の国に引っ越した時は「日本と変わらずとても安全な国」と言われて、行くことにしたが、安全度は日本と同じと言う事は無いように思った。日本が特殊なのであって、日本は異常に安全。

最近時々、海外留学生が事件に巻き込まれているが、警戒心0ではないか思うくらいなのが日本人だと思う。そう言う私は一人で彼方此方気ままに出歩いていたけれど、かなり用心深く行動はしていた。
ごく最近日本も多国籍の住人が増えたけれど、昔は外国人を見かけるのは、ごく一部の地区だけのことで、それも多くは没交渉で、親しく付き合う事などはあまりなかった国だ。

観光会社などから、旅行者は注意は受けると思うのだけれど、まったくの無防備「さぁ何時でも取って!」みたいに財布を手に持っていたりする。
私は外国人の友人に、日本人はどんな感じに見えるか聞いてみた事がある。全員そろって、あの財布を手にじかに持つや、ズボンの後ろポケットに財布を入れているのには吃驚すると言う。

土産物、その他の紙袋を幾つもぶら下げて歩き、ムーンフェース(丸顔)眼鏡、カメラを首からぶら下げ、鳥が鳴くような小刻みに切れぎれの言語を話す。ブランド服を着て貴重品のアクセサリーも沢山身に着けている等などで、聞いただけで狙って居る者からしたら「さぁもってけ泥棒!」状態ですね。

ちょっと日本語が話せる外国人には、即、飛びつき信用するなどと言うのもあった。
暮らしになれてくると、同じ国の人間でも最もだと思う様相ですね。
「旅の恥はかき捨て」も多いのは、とても恥ずかしく感じた事もあるから、あまり今中国人観光客の事など言えない時があった
それでも、綺麗好きな日本人は、部屋を貸すオーナーからは評判はすこぶる良い。

人の事は言えないのは、私は何度も注意されたけれど、ノッカーが鳴るとつい確認せずにドァを開けてしまう癖だった。

ドァの前ににはがっちりしたアイアンガードもついているのに、鍵かけていないし、ノッカーがカンカンとなって「ポストマ~ン!」と言われると、確認せずもう絶対に郵便局と信じ切ってドァを目いっぱい開けてしまう。
メンテナンスの人が来ても、同じ事で頭っから、敷地内はガードマンがチェックしているし、出入り口は鍵が付いているし・・・で、それでもう安心して部屋の方はもう全開にしてしまう。

憧れの植民地風住宅に住んでいた知人などは、白昼強盗に入られているというのに、それも怖がりなので、十分注意していても押し入られて、縛り上げられ椅子に括りつけられたそうだ。

運よく隣に住んでいたオランダ人が、庭の手入れしていて、ふと変な感じがして、偶然日本の新興宗教の数人が布教活動で通りかかったので「様子を見て欲しい」と頼んだので、中に入り玄関からしつこく声をかけたので2人組強盗は、その人達を突き飛ばして逃げたそうだ。

で、彼女は無傷で助かったのですが、助かったのも運が良かったけれど、海外までも日本の新興宗教が行って、集団訪問して布教活動していたというのも吃驚した。
と、やはりかなり危険な目にあっている人は多かった。旅行者もだけれど、案外何年も暮らしている人が被害にあっているのは、慣れからくる油断と言うのもあるのかもですね。命を落とさなかっただけラッキーだったのです。

その他日本人学校の生徒が誘拐され、身代金を要求される予告があったとかで、休校になった事もありましたっけね。

ごく最近の日本人が国内外で、似てきた犯罪が増えてきましたね。丸顔で小柄で警戒心のうすい日本人は狙いやすいでしょうね。お金持ちだと思われているし、確かに凄い若いのに超高級ブランドの物を身に着けている人はごろごろしている。
財布の中身より高い財布を、持っている人沢山いますからね。この日本人心理はなかなか興味深いですね。見栄っ張りなのでしょうかしらね。ブランド品が家に一個もない家は少ないと思うのだけれど、不用心なのだ。

 

 

観葉植物はジャングルにはいくらでも生えていた。

南の国でショックだったのは、日本では観葉植物として売られている植物が、その辺りに適当に生えている植物だったことだった。
日本人のママ友の家が、ジャングルの中の道を暫く歩くとあったので、私もたまには遊びに行った。

植民地風の建物で、セミデタッチと言う、2軒で1軒の建物になっている。
庭もついているし、大体はちょっと広い側溝があり、鉄の門扉が付いていて、玄関まで行く作りになっている。突然の大雨の時の水が流れ込むようにの側溝のようだし、防犯対策でまるかもしれない。

途中の道のジャングルにも、友人宅の庭もブーゲンビリアが1年中咲いていて、日本の植物園の温室の中みたいなのだ。
でも全部勝手に生えていたもので、ポトスなどは商店街の街路樹に絡みついていて、っぱがやたらに大きい。掌を広げた以上に大きな葉っぱなのだ。

茎も太くて、全然可愛くない。日本人が高いお金出して買う観葉植物は、弱弱しくて、今にも息絶え絶えの物に見えるが、そう言う弱弱しいものが、日本人は好みなのかもしれない。人間もやせ形でしんなりした、女性がモテますものね・笑

観葉植物も、結局は高温多湿の気候の中で、ジャングルの中みたいなところで、生存
競争激しく生きている方が、同じ植物でも生き生きして健康なのかもしれない。
最近は日本も温暖化して、昨夏の様に酷暑でなく湿度満点だと、観葉植物は元気だった。しかし、暑い国の植物でも乾燥が好きな植物は今一でしたね。

大きな有名な蘭園もある植物園に行ったが、もう当たり前だけれど蘭だらけ!
私も花や植物が好きだけれど、今一つ蘭の花はそんなに好きではないので、ざっく
り見て帰って来たが・・・

イギリス人の友達の家は、やっぱりセミデタッチの家だったが、バルコニーのパーゴラの隅に野鳥が良い塩梅に巣を作り暮らしていて、バルコニーでお茶飲みながら鳥の生態
観察が出来た。
ブーゲンビリアが、藤棚みたいに絡みついて木陰を作っていたし、食虫植物を上から垂らしていたのも笑えた。それは意図的に垂らしたそうですが。。。

ブーゲンビリアは、花びらみたいに見えるピンクや赤い所は葉パで、中にある小さな白いものが花だそうだ。 アジサイと同じですね。しかし、緑がいっぱいなんだけれど、私は森は好きだけれど、ジャングルは今一つ好きではない。

やたらにカタツムリ系の何とかマイマイが沢山居るし、虫類は蟻以外は皆大柄で・・・
高層に暮らしていても、蟻とヤモリは同居ですしね。
そこで暮らしている時は、室内にプランターは置く気はおきなかった。熱帯植物も、しゃれているのは、多湿好みではないようなのが好きで、探してみたが見かけなかった。それ以来帰国しても観葉植物は買わなくなりました。

自由の女神はどうなるの?

さて、アメリカが新政権に代わったので、ちょっと滞在した事のあるアメリカについての雑記を書いてみます。

アメリカに滞在したのは、南の国から帰国した後のトータル1年くらいですが、暮らしていたのは治安のよい老人ばかりの多いサンタモニカでした。気候が良いので年金暮らしの老人がいっぱいの街で、のんびりしていたし、私はあんまり海外と言う気がしないで暮らしていた。

家から歩いて15分くらいのところにあるモールで、大概の用事が済みましたし、映画とか見たい時は、ウェストウッドと言う学園都市まで出かけていきました。
シティバスの窓が、真っ黒なシェードが張られているのが不気味だった。

外国で良いのは、映画代が凄く安い。映画館内で食べるコーンフレークスが凄く美味しいのですね。食料品も安い。
しかし、日本では見かけない情景を見て、初めてここはアメリカだって思った。
約30年近く前の話ですが、どう見てもその当時の感覚では80歳をとっくに過ぎているご婦人が真っ赤なピンヒールのハイヒールを履いてレオパードのコートを着て、車の運転をしているのを見てビックリ。日本では考えられないような、重度の障害を持った子供が、普通に健常の子達と遊んでいる
。(一時話題になった、下半身のないケニー君?ってい居たと思う男の子が、スケボーに乗って遊んでいた。その子がケニー君だったのかしら?)

そして、もう一つは子供を連れてモールにぶらぶら出かけたときに、まるで映画の中みたいに、ピストルを抜いて、ホールドアップした犯人に手錠をかけているのを見た時がのだけは「おぉ~ここはアメリカだぁ~」と思ったことだった。

巻き舌で早口でしゃべり、初対面でもハグしてなれなれしい(フレンドリーとも言うけれど)アメリカ人はちょっと苦手。知り合いの人は、穏やかに話す人でしたが・・・
しかし、その知り合いの人は日本人女性と同棲していて、結婚しようとしていましたが、親族がカラードと結婚は大反対で、彼女は結婚せずに帰国したと思う。

たいした期間の滞在ではなかったけれど、カラードに対しても隔てなく接する人は、三分の一くらいかなぁ~と言う印象だった。
けして暮らしたい国とは思わなかった。

 そして、話は飛ぶようだが、今回の大統領の白人主義は、本心はやっぱりかなり多いのではないかと思った。日本人も差別心は大いにある国民ですが......
でも、アメリカ大陸ってもともとはネィテブアメリカンの土地を略奪したんじゃぁないの?と思うし(西部劇ではそうなっている)もともとはUKの植民地で、独立一〇〇年を記念してフランスから寄贈された、世界を照らす自由 (Liberty Enlightening the World)自由の女神 は世界遺産になっている国のはず。

その精神は「自由・平等・博愛」だったのではと思ったんだけれどね。
世界各地からやってくる移民を受け入れる国でもあったと思う。

自由の女神が象徴する足元の引きちぎられた鎖の足かせや弾圧、抑圧からの解放、人類は皆自由で平等であることを象徴、冠の意味する7つの大陸と7つの海に自由が広がるって言うのは、どうなるんでしょうね。

実際には世界を動かしているとも言われるフリーメーソンが、何か対策を考えてくれているのでしょうかしらとも思う。少なくともトランプはフリーメイソンではないでしょう。「自由・平等・博愛」を理念とするフリーメィソンなら、トランプがあのような言動はおかしいですものね。

良い意味で経済界に活を入れて、武器を持つ手に松明(仕事)が持てるように改革してくれたらよいのですが・・・
自分の所だけ良くはならないはずですものね。気が付かないだけで、アメリカも色々な国から恩恵を受けているはずですものね。経済でもなんでも先進国であるはずのアメリカがどうしても銃を手放せないと言う国なのが問題ですなぁ~。
どこか心身がアンバランスな国と言う気がする。力もお金もある国なんだから、そしてよいリーダーが現れたら、世界を動かす事だってできるんだから、まず自国が基本に戻りLiberty Enlightening the Worldを忘れないでいただきたいですね。きっと多くの国が良くなると思うんだけれど、どうなんでしょう。

 

一度だけ行った夏休みの旅行

 

約4年間暮らしていた南の国で、子供の学校の長期休みには、一度だけ隣の国の島に旅行に行った。 情報は何もなくて、同行した夫の仕事関係の知り合いの夫婦と赤ちゃんが一緒だったのが救いだった旅行である。

宿泊は3泊4日の旅行である。情報はとにかく海が綺麗とテニスが出来るというものだけだった。 それでも、我が家は子供が夏休みなどであっても、出張が多い夫はどこかに家族サービスで出かけるなんて、2~3回あったかなぁ~の家なので、子供は訳も分からず大喜び。

私は嫌な予感しつつも、まぁ旅行だしぃ~と準備した。3泊4日と言っても大きめボストン1個で十分の旅。人の少ない小島だというし、何処行っても夏だし、宿泊はバンガローと言う名のベッド3個にトイレとシャワーだけの木の家で、ソファやテーブルは家の外のデッキにあるベンチとテーブルのみだった。食事だけは、ホテルの簡素なロビーわきの食堂に行くのだ。

夏休みだというのにホテルはガラガラだった。そこに行く飛行機も10数人乗りの双発機で、プロペラの音がやたらに賑やかで揺れる飛行機で、初めて酔ってしまった。

でもフライト時間は短く着いた飛行場は、ただの原っぱに、木の小さな小屋が飛行場の事務所だった。
ホテルから迎えの車が来ていると言うので乗ったけれど、TVなどで見る未開の地の乗り合いバスみたいに、小型トラックの荷台がベンチになっているだけで、凄いスピードでジャングルの中を走って10分くらいでホテルへついたが、粗っぽい運転に木のベンチでお尻が痛くなった。どうも、南の国の人の運転は荒っぽくて、スピード出し過ぎが多いようだ。
お客は一緒にトラックに乗った私達以外には白人の家族一組だけだった。

夫の情報で当たりだったのは、言われた通りそのまんまで、綺麗な熱帯魚が泳ぐ海と、ひび割れたコンクリートのテニスコート2面だけ、後は全く何もない。TVも無い、ラジオもない。夜の食事は、隣の席はなんだか肉を焼く時に炎が舞い上がるパフォーマンス付きディナーだったが、私たちは夫の意見通りに、行った先のローカルな食事をするのが一番の観光と言うので、3夜ともカレーだった。

連れの夫婦の奥さんは、物凄くご機嫌斜めなのが見て取れたが、私や子供は余計な事を言うと何十倍にもなって返ってくるので「休みに旅行に来ただけ、まだまし」と無言。
考えようによっては、めったに出来ない、原始的暮らしの体験旅行だった。

さすがに気が引けたのか、2日目には漁師がアルバイトでやっている船をチャーターして、無人島へ行って魚釣りして浜で焼いて食べると言うものだった。
しかし、一匹もかからず漁師さんが釣った魚を焼いて、食べて帰って来たのだった。本当に無人島で、それもすごく小さな島とは言えないような島で、大声出せば島中に聞こえる程度。それも若い漁師さんが怒こっていたが、観光客がゴミを捨てていくので、回収して戻ってきた。 私はそこの海岸でクレジットカードを拾ったら、連れの旦那様の落とした物だった。

港がないから、ぎりぎりまで接近した船から、途中まで下がっている梯子を下りて、海に飛び降りるのだ。泳げない人は嫌でしょうね。
乗るときは子供は漁師さんが子供をおぶって乗船したが、私たちは梯子までロープ上りでたどり着きよじ登って乗船。

アルバイトの漁師さんは、大学生だそうで、大学のクラスメイトと言う白人女学生と、暇さえあれば、日本人から見たら、ずっとイチャイチャしていると言う無人島行でした。まぁ、珍しいなかなか体験できない夏休み旅行だったともいえる。
子供がまだ何かと文句を言わない年齢だったので、良かったのですが、同行した人の奥さんはずっとご機嫌斜めの旅行でした。

私や連れで行った家の奥さんは、何も知らなかったので、普通のパンツスタイルで行ったので、帰るまでずっと海に飛び込んでの上陸だったので、ぬれねずみ状態でしたが、まぁ真夏の国でしたので、寒くはなかったけれど、気持ち悪い思いもしました。
それも思い返せば、忘れられない思い出旅行でしたね。
まぁそんな思いもしたので、多少の事には更に何も驚かない様になりました。
そうそう、イスラム教徒の居る国のホテルや宿泊所には、部屋の隅の天井には矢印が書かれていて、それはメッカの方向を表す印だと聞きました。

 

 

チャイニーズニューイヤー

日本で言うお正月は、私が暮らしていた、フラット群(集合住宅)では、欧米人がメィンの居住区だったので、プールサイドでカウントダウンパーティがあるだけで、年が明けてしまったら、2日頃に中国系の人のライオンダンスがジャーンジャーンと言うにぎやかな音でやってきただけでお終いだった。

学校も日本人学校は、冬休みはあったけれど、夏休みみたいなもので、夏よりも少し涼しくて雨が多い(雨季)だけだった。雨の降り方は集中豪雨のような雨が多かった。

2月の初めにあるチャイニーズニューイヤーはいかにもお正月で、真っ赤なお年玉袋(アンパオ?と言ったと思うが)があり、後は親戚や友達が集まり、日本のお正月の様にして過ごすのが、中国系の人達だった。チャイナタウンは勿論ライオンダンスやドラゴンダンス、爆竹と京劇で賑やかだ。中国人が賑やかなはずですね。

我が家も、夫の会社の女性の家に呼ばれて行ったのだけれど、オレンジを偶数もって(6個持って行ったと思う)訪問した。
中華風お節のようなお食事が出て、皆とても美味しかったけれど、中国人好きな夫も
さすがに手が出せなかったのが、スープである。

テーブルの真ん中にドンと置かれた大鍋は野菜たっぷりのいかにも美味しそうなスープ
なのだけれど、お玉のようなよそう物はなくて、皆直接スプーンをつっこんで口に運ぶ
のである。思わず引いてしまった。
そして言葉も、公用語はマンダリン(北京語)だけれど、中国人は凄く言語が多くて、中国人同士でも、まったく通じないそうで英語で話すんだそうだ。

丁寧にに話すマンダリンは私は嫌いではないが、飲食店などで話されている広東語は、大声でどなりあっているように聞こえるので、疲れてきた。
まぁ各省によって、まったく違う言語のようでした。

チャイニーズニューイヤーは大統領も国民も中国系が多いので、メィンストリートでは
パレードがあったりして、とても賑やかだった。
しかし、楽しい事ばかりでなく、チャイニーズニューイヤー前は物騒なので、あまり外
出はしないようにと長く暮らしている人から聞いていた。

日本の昔の暮れと同じで、皆お金が欲しい時なので、強盗などが多い時期なのだ。
それも恐ろしいのは、女性など指輪や装飾品の高価なものは狙われやすくて、後ろから
来て、刃物で指を切り落として、盗んでしまうと言う荒っぽさだそうだ。

その時だけでなく、日頃も私は知り合いに聞いていたので、財布は2個持ち歩いていた。一つは約5千円位入れておいて、襲われた時には逆らわずに渡してしまう為のものである。幸い怖い話を沢山聞いていたけれど、なんの被害も受けずに帰ってこられた。

日本も何時の間にか言われなくなったけれど、昔は暮れは大金を持ち歩いているから、危険な時だったと言われていた。
それで、給料その他が振り込み式になったのだと思う。

治安が良い国と言われていても、安全面に関しては日本は本当に安全で、夜中にも女性が一人歩きしたり、暮れごろには忘年会その他で酔っ払って、電車の中などで眠りこけている人が多いのには、外国人は驚くようだ。

まぁ犯罪被害にあったりもするけれど、その度合いが全然違いますね。

南の国のクリスマス

南の国に暮らし始めた時、最初に友達になったのは、我が家より3階下のオーストラリア人の友達だった。そして英語も彼女からずいぶん教わったが、クリスマスも近くなった頃(たぶん11月だと思う?)南の国の暑い季節のクリスマスは、どんなクリスマスなのかと言う話になった。
その時まで私は南半球にあるオーストラリアは、季節が真逆だと気が付かずに話していたら、ゲラゲラ笑いながら

「私は何時も真夏のクリスマスだから、クリスマスケーキはアイスクリームよ!」

と言われ

「えっ!そうだったの!」

とやっと気が付いた。 彼女にとっては、赤道直下の暑いクリスマスは、何の問題もない事だったのだ。
でも一応サンタさんはやってくるらしいが・・・
そしてその国のクリスマスは、街中の大きな木の並木道には豆電球がたくさん取り付けられて、とても綺麗だったが、凄い人混みで、ラッシュ時の新宿や東京駅みたいに混みあうものだった。

飾りは意外とシンプルだけれど、ニセアカシアの木のような大木に豆電球は、見事だった。でも私がお気に入りになったのは、植民地風の家が立ち並ぶ住宅街も、だれが飾るのか、赤いリボンがたくさん取り付けられている可愛い木が幾つも見られた事だった。すぐ横にバナナの木などが在ったりするのがご愛敬でもある。
暑いのが苦手な割に、野次馬の私は直ぐに情報を得ると、見に行ったりしたんですね。我が家には運転手付きの家族専用車などないので、何かと友達のお世話になった。西欧人は自分で車の運転する人がほとんどでしたので、結構アッシー君をしてくれた。

それ以外にも、ポンポンツリー(リンゴ状の青い実がなる)とか、ウインナーツリー(ウインナーソーセージみたいな実がなる)レイニーツリー(雨になる前に閉じる)などに、巧い事赤いリボンが飾られていて、とても可愛かったのを見かけた
クリスマスイヴ当日は、暮らしているフラット(高層マンション)5棟が(1ブロックになっている)プールサイドで、事務所にプレゼントとメッセージをつけて預けておくと、サンタさんに扮した人が大きな袋からプレゼントを出して、子供の名前を呼んで、膝に座らせて、Kissしてプレゼントを渡してくれるイベントがあった。
青い目のサンタさんなので、かつらや付け髭が本物みたいだし、よく見ると凄い汗だくでお気の毒なのだけれど、もう子供は本物のサンタさんに出会ったと思い込んでいた。

そして、ノルウェーのサンタランドには何時も手紙を出していたので、南の国であっても、ちゃんと日本語のメッセージが書かれた、カードが送られても来たので、私は親の面目が保てた。
子供は
「暑い国はサンタさんが来られないのも嫌だ」
と言っていたのだが、なんと言いつくろうか考えていたので、そのイベントは有難かった。

大人の私が見ても本物みたいで、感動したサンタさんでした。
後は昼間に私の友達などが協力してくれて、何時も父親不在の我が家に来てくれて、アイスクリームのクリスマスケーキを食べて、ささやかなクリスマスを過ごした。

何度目のクリスマスか忘れたが、姑さんと義姉が来たときは、夜の街にクリスマスデコレーションを見に出て行ったが、もうもみくちゃになって、暑いのと臭いとで、私は少々ぐったりだった。
近隣国からも見物客が来ていて、
その時に初めてスタイルの凄く良い美人トップモデル集団が闊歩する横を通ったが、ニューハーフ軍団だとか・・・

それ以外にも、その国はゲイに寛大なのか、ゲイカップルをよく目にした。最近TVでアラブ人は男同士手をつないで歩いたり、抱き合ったりするらしいと見聞きしたけれど、私が見た光景は、それとは違うように思った。

娯楽場らしきものは、その頃は一般人には全くなかったので、テニスをやるかブリッジやマージャンに熱中するか、ホテルでパーティをする。宝石や貴金属を買い求める集まり?で時間をつぶす人がほとんどの日本人の暮らしのようだった。

私はテニス以外は、持ち寄りランチをたまにするくらいで、パーティなど直ぐに飽きていく気なしで、PTAの集まりの時くらい出席だった。
「そこに駐在した時くらいしか」チャンスが無いんだから!」
と誘われたが、嫌みになるかもなので言わなかったけれど、私はホテルやクラブなどが沢山ある街で育ったので、若い時はいくらでもパーティに参加していたので、今更暑いのに出ていきたくなかった。

クリスマスのころは、大人も盛んにパーティをしていたようだけれど、主に外国人の友人に恵まれたので、彼女たちと過ごしていたので、あまり私にはお誘いは来なかった。
外国人の友達が多いと、ちょっと日本人には敬遠されるのである。
私も子供関係のママ友とそこそこ
に付き合うだけだったので、地味なホームパーティくらいのクリスマスを送っていた。
西欧人の子供は、クリスマスプレゼントも、意外と地味で素朴なプレゼントなのも学んだ。

日本人の子供は、ファミコン?TVゲームとか豪華なプレゼントが多かったように思う。そんなだから、現地の人には「日本人金持ち」と言われて、ひったくりとかのターゲットにされやすかったのではないかと思う。
でも、あの住宅街の赤いリボンだけのクリスマス飾りは、十分私を感動させてくれたのでした。