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ひつじのTime killing notebook

昔々、気がつけば更に昔の海外暮らしや旅行などで、見たり聞いたり体験を!所変われば常識も違ったりしてね。  むっふ(=^m^=)♪

海外のトイレ事情

何が違うかというと、彼方此方の国に行って、ありゃぁ~!って思ったのがトイレ事情でしたね。日本では団地というものが出現してからだと思うのですが、急に様式トイレが普及しだしましたが、古くからある一戸建て住宅は未だに昔ながらのトイレも残っています。もちろん水洗だと思うのですが、田舎の方ではまだ浄化槽でしょうかしらね?

 

さて、初めての海外暮らしをした30数年前に暮らした国では、多国籍文化でしたので色々なトイレに出会いました。 外国人住人の暮らす家や、観光客の行く所、植民地式住宅は洋式トイレになっていましたが、公共の場のトイレはトイレドァの下の方の開きが下まで無くて、結構大きく開いていました。
これは治安のためだということで、ホテルとかデパートは普通のドァだったように思います。

このドァの下が大きく開いているのは、その他の海外では度々出会いました。
アメリカなどは、まず公衆トイレがなかったですね。何処か飲食店などに入らないと、トイレは無かったと思います。

日本は気楽に、実にラフな気分で入れますが、海外では治安がよい国といわれていても、暮らしていた南の国などでも、住人であっても、トイレ内で身包みはがれてなんていうことは良く聞く話でした。

そして、その国に居る時に出会ったトイレで、以外だったのは、確かトルコ系の方の家は和式トイレで、とても綺麗なタイル張りでした。

中には和式トイレで向きがドァのほうが前にのトイレもありました。和式で後ろ向きトイレは一番無用心なスタイルですものね。
腸の長い日本民族には、和式トイレの方が便秘にならないそうだとも聞いたことがありますから、トイレ事情もなかなか面白いですね。

 

そして、街中から外れてカンポン(村)といわれる、ローカルな家に行くとトイレが無い家も多いようでした。
かっこよく言えばユニットバス式。 水浴びする大きな風呂桶の横に大きめ溝が有り、そこで用を足した後は桶の中の水をひしゃくやバケツなどで流すのですね。

私は見て説明してもらっただけで、未使用でしたが、トイレットペーパーは置かれていないのが普通のようで? 手動式ウォッシュレットなのでしょうかしらね?
だから手で食事する民族の人は、不浄な手と食事する手が違うのかもしれないと思いました。

さらに、観光で行ったある水上の村のトイレは、村中通路も何処も海の上なのですが、トイレは周囲を囲まれた広い個室ではあるんだけれど、床が長方形に切り取られているだけ! 水洗ではなくて海没型トイレというのでしょうか・・・


魚などが処理してくれるそうですが、そこはシーフードレストランで食事をしていたのです。 とても美味しく頂いていたのですが、微妙な気分になったものです。

ある中国系の人の家は、高床式の家で、家の下は家畜(豚)の小屋になっていて、トイレもやはり、長方形に切られた穴がトイレで、豚さんなどが処理してくれるのだと.....
非常にエコな暮らしとも言えますが、なんだかねぇ~でした。


でも昔は、世界中何処でもトイレなどは、結構外に別にあったりして、今のような水洗の清潔なトイレというのは、歴史的に見ると結構近年のことですね。

後は見た訳ではなく、聴いた話では、たるませたロープが張ってあるだけのトイレだったり、木の葉がトイレットペーパーの代わりに置かれていたり」、穴を掘って埋めてしまう式トイレだったりと色々あって、面白いですね。多分今時そんなと思うけれど、未だそのようなトイレ事情健在ではないのでしょうかね。

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革ジャンを後ろ前に来てバイクに乗る

ローカルの一般人は車よりもバイクに乗る人が圧倒的に多いよううで、2人乗りは違反ではないようだった。特に隣国との国境は朝晩物凄いラッシュで、賃金の良い此方の国に働きに来る人が多く、橋一本で行き来できるので、皆パスポートを持って出勤ラッシュとなる。見慣れてしまえば、まぁどうと言うこと無い風景だけれど、バイクに乗っている人に革ジャンを後ろ前に着ている人がとても多い。


何時か理由を聞いてみようと思いながら、ついに忘れてしまって、今に至るのだけれど、深い訳があるものか、単なるファッションなのか不思議な風景だった。
四季のある同じアジアの国の日本人気はかなりのもので、芸能人なども日本の歌手や歌のファンはかなり居た。


その当時一人気の日本の歌は谷村新二の昴が流行っていて、メンテの人は良く歌いながら廊下を歩いていた。洋楽では、スティビーワンダーの至上の愛で、子供のスクールバスのドライバーが何時も音楽かけて、鼻歌交じりで子供の送迎をやっていたらしい。したがって、子供もこの歌が歌える位に覚えてしまった。


日本だったら、保護者会が煩くクレームつけていたかもしれない。革ジャンとは関係ないけれど、朝のラッシュ時は街中には一人乗りの車は入れず、曜日によってナンバープレートが、奇数の車の入れる日と偶数日に別れていた。


横断歩道は車優先で、横断歩道は青になったかと思ったら、直ぐに赤に変わってしまうので、慣れるまでは青になったら、駆け出さないと、車はお構いなしに走り出すのである。歩行者はと言うと、忙しそうに歩く人など居ないのに、信号は渡りきれるのが不思議だった。車は日本のように横断途中の人が居ても関係なく発進するのだ。


そして、国際免許を持っていて、自分で車を運転する人は大変なのは、うわさでなくて真実の話だそうだが、ある日本人主婦が事故を起こして子供を轢き殺してしまったそうだ。相手は、今盛んにニュースになっているイスラム教徒の子供だったと言うことで、示談などは無く、終身刑になってしまったすだ。私などと同世代であれば、まだ刑務所に入っているのだろう。


当然離婚して、一家は帰国したのでしょうね。ですから、海外との外交や、商売のやり取りする人は、よほど巧くやらないと大変でしょうね。
根本からルールが違うと、話し合いが成り立たなくて平行線になってしまう。空気を読むだの、何となく阿吽の呼吸などは、よほど個人的に親しい間柄以外は、成り立たないでしょうね。同国人同士でも、言わなければ伝わらないことが多いのですから・・・


しかし、理屈ではなくうまが合うと、こんなに親切にしてくれて!と思うくらい親切にもしてもらえるから、なかなか難しいものですね。そう言いながら、私は同国人との付き合いのほうが気を使って大変だった。それは、何時もグループで固まってしまうのが嫌だったのですね。これは日本に居ても、グループで行動しないと、嫌がらせうけたり、まぁ虐めの対象になったりしやすいのが、困ったものなんですね。


海外が暮らしやすい人は、日本はある意味、神経を使って暮らさないとならない時がありますね。と話がコロコロ変わってしまいますが、革ジャンの着方から交通事情、お国柄?などなどでした。

 

マラッカ海峡の海賊

さて、前回の日本人学校に関しては、内容が一寸ばらばらで・・・PC不調により思い出したことをメモ的に書いてしまいました。

今日は前から日本人には嘘!!!と言われた海賊の話です。
最近国際ニュースを見られる人は、ご存知かと思うのですが海賊が今でもいるということの話です。今確認したら、いまだ健在のようで・・・

私が暮らしていた30数年前は、新聞には海賊が東海岸に上陸して強奪行為をしたとのニュースも目にしました。

海賊と言うと私はフック船長みたいに片足が鉄で出来ていて、鍵フックの手をした海賊などのイメージが強いので、実存している海賊のなりはどんなものなのだろうか?との疑問があった。聞くところに寄ると、青龍刀のようなものや、銃をもっているそうで、やはり海賊らしく南の国であっても、すばやく闇にまぎれて上陸して、金目のものを強奪して、殺された人や誘拐された子供もいるするらしかった。

マラッカ海峡周辺は小島も多くて、身を潜めるには都合よく出来ているようだし、当時からタンカーなどや船の行き来が非常に多いところなので、領地を持っている西欧諸国の頭痛の種だったようだ。
日本の船も当然通る航路なようですが・・・
しかし、現在は空からの偵察も強化されて、一時よりも少しは減ったらしいとの事です。 帰国した時友達に海賊の話をしたら、大笑いされて、冗談だと思ったらしい。
ミサイルが飛び原子力などが発達した今、海賊だというとピンと来ないでしょうが、闇にまぎれて素早く強奪する行為は、小回りが利くアナログな方が都合がよいのでしょうね。

とネットのニュースなど見ても、この時代に?ですけれど、地球上はまだアナログな世界も沢山あるようですね。デモその海賊もきっとスマホなど使って、情報収しているのかもしれませんが・・・

やっている事はとんでもない行為ですが、海賊という言葉にはなんだか夢があるような気がする。
流石に山賊と言うのは聞いたことないのですが・・・TVとスマホは、かなり昔ながらの暮らしをしている部族などにも普及しているようなのが21世紀らしいですね。

でも必ず悪事にも使われるんですねぇ・・・

 

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日本人学校

今年は少し前(大分前?)永六輔氏が他界した。
彼のラジオ番組は時々聴いていたのだけれど、大昔南の国に暮らしているときには
永六輔中村八大と言うおじさんが日本人学校に来てお話をしてくれた」
と子供から聞いた。
海外の日本人学校には、そのようにたまに有名人などが来て、体育館に集まりお話会があったようだ。子供の話なので、どの様な話を聞いた忘れてしまったのだが、確か国際人として生きていくには・・・のような話などされたようだった。

永六輔氏が病気になる前のラジオ番組や、著書を読むと、まぁ難しい内容の話なども易しく興味深く話すので、面白く聴いたり本を読んだ。特に日本人学校に居る児童・生徒は、何時も日本人として恥じないようにと言い聞かせながら育てる傾向にある。
まったく関係なくしている人も居るのですが・・・

日本人のマナーと外国人のマナーは違ったりするから、国際人として暮らすには、自分も気をつけつつ、相手国のマナーも巧く折り合わせながら、上手に暮らさないと、一人が馬鹿なことをすると必ず「○○国人は・・・」と言うことになるからである。


そして、海外駐留家庭の子供は、そのまま日本帰国とは限らず、父親の仕事の都合で何処に行くか判らないで、ずっと彼方此方の国で暮らさないとならない場合もあると、何人なのかわからないような人間になって行く。
そうなると次も海外のほうが良い場合もある。日本に帰国するのが、最も難しいかもしれない。 時には日本の暮らしの事など、まったく記憶に残っていない場合もあるので、定期的に一時帰国したり、永六輔氏達のような人が来て、色々な話をしてくれるのだろう。


人の考えは色々だから何とも言えないのだけれど、私は本も読んだりするくらいだったから、彼らの訪問はなんだか良い話が聴けたのではと嬉しく思った。
それ以外にも、日本から芸能人がやってきて、ホテルで何とかショーなどをしたりがあるのだ。私は行ったことはないのだけれど、行った事のある人から聞くと
「もういっぱいだったわよ。懐かしく聴いてきたわ」
と言うことだった。食事もそうなのだけれど、今は和食ブームと言われているけれど、日本人は他国で暮らしていても、心は日本から抜け出さずにいる人が多いように思われた。

日本人学校と言うのは、日本人でありながら、日本式授業もやるけれど、他にはその国の教育も取り入れてでの授業がある。英語の授業や課外授業などは、日本での授業とは違った授業をする。ハーフの子供も居るので、色々な文化にも触れるチャンスでもある。そして、その頃も思ったし、今も感じるのだけれど、教育の内容に関しては、日本の教育は相変わらず試験の成績はそこそこ良いのかも知れないが、思考する教育は遅れているような気がするのは私だけだろうか?と言うことである。

 

よく言われていたように、子供も帰国子女ということで、中学は日本に帰国してすごしたが、高校は海外の学校で過ごしてきた。小学生で未熟であったにしても、約4年間暮らしで、学校の先生にもこれはおかしくないですか?とはっきりものを言うので、一部の教師には目をつけられてしまったりしたのだ。
良い教育と言うのは、 至れり尽くせりの教育と言うことではなく、もう高校生くらいになったら、世界情勢が今どうなっているのか、日本は今後どうしたらよいのか、しっかりとディスカッション出来るような教育と、語学力を身につけられる様な教育にならないとって、思うんだけれどね。世界の日本などと軽々しく言える今ではないような気がする。
せめて日本人学校くらいまで、開かれた精神であっても良いように思う。

 

で、話の趣旨が急に変わってしまうが、永六輔氏と聞くと、以前永六輔氏の本で読んだ中で、頭の中に残っている言葉があり、今しみじみとそうなんだよねぇ~と思う言葉がある。
読んだ当時は若かったので、ただ可笑しくて笑っただけなんだけれど、今高齢者の仲間に入ってきて思うのは「どこか一箇所だけでも達者ならよい」と言う言葉である。

それは確か体は動かなくなったけれど、口ばかり達者で・・・と言うのに対しての言葉だったと思うが、超高齢化した今は、本当に一箇所達者なら十分元気と言えるのでしょうね。

話がつながらない様だけれど、永六輔=日本人学校=一箇所達者ならと連鎖して記憶が戻るのである。
南の国の人たちは、今はどうであるかわからないけれど、その当時はものすごく短命だと聞いていた。体がスムーズに動かなくなるほど、超高齢ではなかったのは、若くっても暫く暮らすと、南の国人特有の、のんびりのんびり動くようになってしまうのだった。蒸し暑くなった今は、日本も今後は、架の国と同じように体力の消耗が激しくなってきているのかもですね。

 

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南方ボケってしてきたら、暮らしに馴染んできたっていう事

子供時代に、大人の会話で南方ボケと言うのを聞いていたが、それが本当だと判ったのは、やっぱり暑い国、四季の無い国で暮らしたからだ。
1年くらいは、あれこれ習慣の違いや、その他が初めての経験で「へぇ~そうなんだ!」で通り過ぎていく。

適当に慣れてきた2年目くらいから、その国での過去が積み重なってくるわけだけれど、これが物凄いボケ方をする。 
四季がある事によって、あの時は寒くてコートを着ていたとか、周囲の風景などの変化から、あれは何時だったと思い出すきっかけが出来る。

しかし、1年中同じところには同じ花が咲き、景色は実際は入れ替わっているのかもしれないが、観葉植物の大群が1年中生えているジャングルである。
体感も何時も暑いのだし、まぁ多少の変化が判るのは月の満ち欠けくらいでしょうかしらね?
確か月の満ち欠けが日本とは反対に欠けて行ったんではなかっただろうか?記憶は曖昧なんだけれど・・・

日本人が殆んど居ないフラットだったが、賃貸料が安くなったので、日本人学校にも行きやすいという事で、だんだん日本人が増えてきた。

そうなると、子供は遊び相手が出て来て良かったのだけれど、日本人の親同士が繋がって居ないと子供も遊び相手が居ないことに成る。その頃から私は外国人の友人たちとは付き合いが疎遠になっていった。

外国人の友達とばかり付き合っていると陰口の的になるからだ。大人事情では構わないんだけれど、子供が仲間に入れてもらえないのは、余りにも可哀想である。
で、私もママ友仲間に入って付き合うようになった。私よりもずっと早くから暮している人たちが沢山いたが、吃驚したのは皆決まった場所にしか出かけていないのだ。


理由は怖いからという事で、何が怖いのかママ友たちから聞くと、本当に恐ろしい話が一杯で吃驚した。しかし、外国人の友達から聞いた話では、置き引きに遭った話位だったんだけれどね? 集まった時の話題は、何処の国も噂話とかは嫌いではない女性達だけれど、内容はかなり違うようだ。
何処から本当なのか、話が勝手に膨らんだのかは不明で有るけれど、まぁ実に色々な話を聞くことになった。


それでもそこそこ私が仲良くなったグループは、面白い人たちが多いグループだった。皆メイドさんが家事をやってくれたり、外出は運転手付きの車が使えたりが多いので、ハッキリ言って暇人ばかりなのだ。
ラフスタイルからして、私はUKの友人の方が気が合ったりしたんだけれど、そこは臨機応変にで、何時までも拘っていても仕方がない。


朝夫が出勤した後は、ギャンブル好きな人はブリッジに明け暮れ、私などは子供が同世代で、テニス仲間が集まるという事になった。
ある日の事、もう5年位暮している人の家に集まった時の事、何かの用事で彼女が電話をしているのを聞いて、皆で爆笑してしまった。


それは午前中9時過ぎだと言うのに彼女は時計を見て「夜分遅くに申し訳ありませんが・・・」と話し出したのだ。
その頃は夜9時過ぎに電話しなくてはならない時には、夜分恐れ入った時代だったのである。それにしても、まだ皆30~40歳代位の歳なのに、物凄いボケまくるのである。そんな塩梅だから、電話連絡網は要注意で、確かラストまで行くと又最初に連絡をした人にラストの人が連絡するを徹底的にやっていた。

 

時間の間違いが一番多かったと思うが、過去の話をする時は、それが何時だったのか全く分からなくなってくる。その為にも、子供が日本の暮らしを忘れないように、休みの度に一時帰国させている家庭も多かった。
小さい時の数年は物凄く違う数年なのだ。我が家は一度だけ親子で一時帰国したきりだった。しかし、今振り返ってみると、あれは何月の事だっただろうとか、何年目だったか全くわからない時期でもあるのですね。

何月はかろうじて、あちらの行事でチャイニースニューイヤーだから2月とか、ランタンフェスティバルだから9月だとか大雑把には覚えていたりするのは、彼方此方に出かけていたからでしょうね。長く滞在する程に、まったくそこでの暮らしは何時の事だったかが思い出せない。色々な事件もあったのだけれど、それが南方ボケと言われる事なのかもしれない。

 

当時は日本も今みたいな超高齢者はいなかったし、南の国では暑いという事はエネルギーの消耗が激しいのか、50歳と言ったら物凄い老人だったし、寿命も60歳まで生きたら凄い長生きと現地の人は言っていたとおもう。
当時でさえ80歳近いのじゃぁないかと思えるような人が、50歳台の人だったりして、これまた吃驚したのでした。

今私があれこれ物忘れなどが増えてきたが、当時はまだ若くして、日を追うごとに同じくらいにボケてきていたのでした。やっぱり暑いと人の脳は、活発には動かなくなるようですね。

 

私の幼稚園の同窓生と出会ったのには吃驚‼

海外での暮らしで大変なのは、子供である。 運よく日本人学校に転校出来たのだけれど、帰宅後に遊ぶ相手が居ないのだ。特に私が暮していたフラット(集合住宅)は高層の建物が5棟ある所だけれど、学年も違い男の子が2人位しかいない。

通学はスクールバスが送迎してくれるのだけれど、学校が終わったらさっさと送り返されてくる。そこで、担任の先生が一番近くに住んでいる子の家を、数件紹介してくれるが、親が車などで送り迎えしなくてはならない。
どんな相手かも解らないし、基本、遊ぶ間ママ友にならなくてはならないのだ。
で、一番近い相手は幸い親が送迎すれば、徒歩3~40分くらいの所にある、セミデタッチ(2軒長屋の植民地風の家)に住んでいる家で、姉妹の上の子が同じクラスの子だった。一応新参者の私が挨拶の電話を入れた。


もう1軒は車で10分位の所のフラットに住んでいる家で、そこも姉妹で姉の方が同じクラスの子だった。子供同士は、両家とも仲良く遊べる相手だったので、行ったり来たりで、時々遊ばせることになった。

しかし徒歩で行ける家の子達は、プールが無いので、チョクチョク遊びにやって来るようになった。日本なら子供が勝手に遊びに行き来できるが、海外ではそういう訳にはいかない。

その国は治安が良い国と言っても、人身売買で、子供が誘拐される話がまだある時代である。白人の金髪の子が一番高く売れて、日本人の女の子は2番目位の値段なのだそうだ。金髪が高額なのは何となく理解できるが、日本人が二番目の理由は、従順で優しい性格だからだと言う。

その様な事情で、子供を遊ばせるためには親付きなのである。
子供をプールで遊ばせながら、親はプールサイドでお喋りタイムだ。 たまたまそこの親は美大を出ていると言うだけあって、感覚が合って話が弾み、親も楽しくお喋りするようになった。
同世代でもあり、子供時代の話になると、何だか共通した思い出が余りにも多いと気が付くようになった。 お互いに出身地は東京とだけしか話してはいないけれど、東京だって場所によっていろいろ環境が違う。


その内どちらかともなく「何だか凄くよく似ている環境で育ったわよね。いったい東京の何処?」という事になったら、何と同時期同じ幼稚園に通園していたのだ。
ベビーブームでいっぱい居たので、同じクラスにはならなかったし、私は3年保育だったので、まったく顔を合わす事もなかった。
2人してこんな暑い国で出会うとはと大笑いになった。幼い時育った世田谷区は、近所付き合いは限られている場所なので、幼稚園の北側と南側と言う反対方向に住んでいたので、まったく出会う事無く終わっていたのである。

それにしても、南の国で出会うとは凄い偶然だった。その後は私の行く一人観光に彼女は一緒について来るようになった。1年半ほど彼女の方がその国に住むのが先輩だったのだけれど、怖くて決まった場所にしか出かけていないと言うので、私の方がまるで先輩のように彼方此方を「スケッチでもしよう」という事で出かけた。

ところが彼女と一緒に出掛けるようになったら、あまり彼方此方には行けなくなった。それは幾ら言っても、女っぽい彼女は胸の大きく開いた、フレァ―たっぷりのワンピースを着て、長い髪も纏めないで下したままくるので、非常に危険。更に怖がるけれど、彼女は男好きなのである。


同性が見ても、スカートめくりしたくなるような、華やかな色合いのスカートをヒラヒラさせてくるのだから、何か遭ってもこまるので、そこそこの所しか一緒の時は出掛けられなくなった。
そんな恰好を注意しても一向に止めないくせに、彼方此方怖い怖いと言いながら付いて来た。

彼女もサークルに参加して居たりするから、毎回一緒ではなかったから、一人の時は気ままに出かけ、2人の時は話は面白く盛り上がる相手なので、それなりに楽しんで過ごしたのだった。

でも寄りによって、何だってあのような海外で同じ幼稚園に同時期通園していた人に出会うとは、世の中面白いものである。彼女が一緒だったからこその、興味深い出来事にも出会ったのだった。

傘不要の国

ちょっとばかし前に、TVで日本人は傘を直ぐに差すが、外国人は・・・というのをTVで見た。
私が暮していた暑い国はよく雨が降るシーズンもある国だった。四季はなくて雨季と乾季に別れていて、日本が冬の時は雨季にあたる。

その国に居る時4年位の間一度も傘を差したことが無い。それは、傘が役に立たないくらいの大雨が降るのだ。最近の日本の大雨と同じだ。東京は今まだ大雨と言っても、そこそこだと思うけれど、その国の雨は密度濃く激しく降るので、道路の反対側が良く見えないくらい、まるで雨のカーテンが引かれた位にボンヤリとしか見えないような降り方だった。

 

したがって、雨もフルパワーで降るから疲れるのか、暫くしたら嘘のように止んでしまう。

雨が降ってきたからと言って慌てる人は誰も居ないのだ。雷が怖いだけですね。その様な大量の雨の為の大きな溝?川があり、雨の後は激流になるらしい。

雨降ったら、傘さして長靴履いてなんて、お上品な雨ではなくて、降りだしたらマンホールの蓋が飛び上がり、排水溝は2mくらいの高さの噴水になる。そんな時の為に、日頃は只の大きな溝、川が掘られていた。
その溝、川は、旧日本軍が駐留していた戦争中に、掘ったものだとタクシードライバーが教えてくれた。


今の日本の大雨と同じ陽気で、もう少し気温が低いのが赤道直下の国の気候だ。ジャングルがあるから、木陰も多くて、体が慣れてくると、汗腺が広がってくる?とかで、2年目からは楽になってきた。代わりに日本に帰国したばかりの時は日本は寒く感じた。

人の体は巧く出来ているものである。そんな訳でめったに傘を差すような程々の雨が降った記憶がない。霧雨は有ったかも?しれないが、暑い国なので雨にぬれてもすぐ乾くし、街中には避難する軒などがある。

一人観光でウロウロしている時も、大概はちょっとした商店がある所に出かけたから、直ぐに雨宿りさせてくれる。したがって、南の国は雨も多いのだけれど、傘も長靴も意味のない物だった。


それ以外の滞在した海外は、サンタモニカだったので、反対に何時も爽やか晴天ばかりで、私の好きなカラッとした陽気だったが、カラッとし過ぎて、1年中ほとんどカラッとしていて、風が強いと木立がこすれて自然発火の家事が少なくない所だった。したがって、傘は全く必要ない。程々で心地良いので、日傘もいらなかったし・・・


一見良かったんだけれど、四季の有る国の者にとっては、味気ない気候とも言えるんですね。人間も気候に合わせて、カラッとと言うか、実に大雑把。此処は何年も滞在したわけではなくて、夏休みや冬休みなど子供が学校が休みの度に行ったり来たりを続けていた。

 

後はちょっとした旅行や用事で訪れた、ロンドン、パリ、カナダも傘は必要なしで、傘さしている人も見かけなかった。英国」と言うと素敵な紳士がカッコよく傘を持っているイメージがあったけれど、暮していた南の国のデパートで傘売り場を見たら、あのカッコよいキリッと巻き上げた傘は骨が確か少ないのですね。あれは差すものではなくて、アクセサリーメィンのようだった。 それから傘が刀みたいに鞘に収まって、日頃はステッキという洒落た物がありましたね。


ちょっと感動する素敵な傘だった。おしゃれ用ですから持ち手のデザインが素敵で、最近もTVで見る、エルキュールポアロが持っているステッキの取っ手のように、白鳥だったり、ポインターの顔だったりと非常に凝っているのだ。

英国から独立して約10年頃でしたので、英国色が濃く残っていたし、本当に植民地だったんだと思う、まだまだこれからの雰囲気が、活気をもたらしているようだった。

ほぼ母子家庭だった我が家は、考えたら色々と大変だった事もあったのだけれど、あのくらいあらゆる国の人が寄り合って暮していると、助け合いも多くなって、私は随分良くしてもらって、ノイローゼなどにもならずに(なって帰国する人も居るとの事)、苦手な暑い国だったけれど、それなりに楽しまなくちゃぁと暮したのだった。

 

 

 

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